2008年7月24日 (木)

シーゲル堂での、などなど展もうすぐ終了

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シーゲル堂での「三宅家などなど展」もいよいよ終盤。
26日はトリノイエプロジェクトと重なっていますが・・・
27日は11時から5時までシーゲル堂にいる予定。
お菓子とお茶ぐらいは出しましょうか?

展示内容も、当初よりずいぶん充実。
新刊「心の山登り」も発売中。Photo

また、母親が1950年頃に書いていた「ちおんば」という童話集(童話というには、ちょっとヘビーな・・・)
も自費で再出版。これは1000円ですが、これでは元が取れないのです。本当は・・・
で、これもオススメ。

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まだ足をお運びでない方・・
ぜひどうぞ。

2008年7月11日 (金)

シーゲル堂で展覧会開催中

藤野駅前坂下る。御存知シーゲル堂で、

三宅家大展覧会 などなど展
を開催中。

一家一族?
父修、母節子、妻典子、娘花乃、そして僕の、5人の出店です。

新しい本も出ましたので、ぜひおいで下さい。
詳細はhttp://homepage3.nifty.com/GAITEN/page075.htmlを参照してください。

なお、シーゲル堂は休みが多いので事前にご確認をお願いします。

最終日曜の午後3時から5時(終了時間厳守)は、
お茶が飲める程度の、ささやかにしてささやかなパーティー?をしますが
狭いので、期待は・・・です。

2008年3月31日 (月)

仲井戸さんの機材盗難

チャボさんの機材が車ごと盗難された。早期発見を祈る
愛用ギターやアンプなど、
これは本当にはらわたが煮えくりかえる。


車はハイエース。以下のアドレスに盗難情報があります。

http://www.up-down.com/020chabo/index0.html

先日の忌野清志郎完全復活祭にも使われていた機材だと思う。
また、リズムマシーンはかつて新宿パワーステーションで毎月ライブしていたときに
独りだと寂しいので、などといって紹介した記憶が・・・

とにかく、泥棒さんはイカン。

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僕がかつて会津駒ヶ岳登山口で盗まれた機材は、まったく戻ってこなかった。
尾瀬を一周する取材を終え、最後の取材だった。
撮影済みのフィルムも持って行かれた。
スタジオ用大型ストロボだけで30万以上、
他の機材を入れれば、新品で百万ぐらいの物だったんだよ。

でも、出てこない。

おーい、チャボさんの機材、出てこいよ!!
犯人、もう止めろよ悪いこと。

2008年3月24日 (月)

閉校

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昨日、母校の閉校式典の、本当に最後の最後だけ出席。
何と寂しいことか。
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数年前、篠原小学校で味わったむなしさを、
いや、それ以上のやるせなさを感じさせられた。


都会から転校したのが小学校3年の時。
一学年四クラス以上というマンモス校から、
全校生徒でも百人満たない学校へ。
当時、神奈川県で最も古いと言われた校舎は、もちろん木造平屋建て。
築八〇年以上の建物だったはず。
(ちなみに僕はその木造校舎での最後の卒業生でもあった。)

ケンカがこじれてトイレの戸を蹴破ったり、その戸を教頭先生と直したり、とにかくいろいろやったなあ。
もう三〇年以上も前か。

あの頃、特に小学校五年の途中までは、本当に何の屈託もなく、最も輝いていた日々かもしれない。
それほど楽しい学校であった。
少人数での教育では、誰もがちゃんと育ててもらえたのだ。
血の通った教育は、とても贅沢でした。
(小六の時は、僕は道を違えたので、友達をずいぶん減らした。
これは今から見ても、よかったのだろうか悪かったのだろうか、判断に苦しむことなのだ)


絶対に少人数での学校が良い。僕の確信はこの日々にあります。

たのしい子供時代を過ごさせていただき、ありがとうございました。
記録誌に写真を使っていただいたことが良い記念となりました。

四月からは、近隣の(と言っても距離は遠い!)四校が一つの学校になる。一学年が二クラス以上になってしまうのだという。
地域の子供、という意識も薄らぐだろう。
明らかに教育の後退となるのではなかろうか。

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閉校式では、はるばる四国の山中から、杉本先生がいらっしゃってくれていた。
小学校三年、転校時の担任。
授業はユニーク。とにかく生徒に考えさせた。
算数など、一時間に二問だけ。
その難問をなんとか解こうと考え続けた。
派手にしかられ投げ飛ばされたこともあった。
真冬の社会見学では、バスを待つ間に全員に肉まんをおごってくれたり、天童からの出張の帰りには、全員の名前入り将棋の駒をお土産にしてくれたり。


小学校を卒業した年の夏、
すでに故郷に戻られた先生を頼って四国の先生の家までひとりで旅した。
祖谷の奥深い山中の斜面にへばりつくような、藤野よりもさらに山奥。
そういえば、五右衛門風呂でした。

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式典終了後、声をかけられ、近くの旅館へ。
世代を超えての同窓会とのこと。
でも同期もその上も誰もいない。
若者(?)ばかりだ

・・・

でも、何となく見た顔ばかり。
いろいろな人から「gaakuさん」と声をかけられる。

あ、同期の妹の!とか弟の!とか。

それから、僕が六年の時によく遊んでいた
新入生のシンちゃんとケイ君か!

少しずつ時間がほぐれ、何となくタイムスリップ。

おい、同期ども。何やっているんだ?
俺は、相変わらずさ。
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 さようなら
 吉野小学校。

2008年3月 8日 (土)

キッズシアター!!

いよいよ今年のキッズシアターが本番。


花乃は、もう少しせりふが欲しい!などと生意気を言っていましたが・・・
もちろん頑張っていますよ。

お時間のある方!ぜひどうぞ。Dsc_1063


2008年
3月8日(土) 午後6時開演
3月9日(日) 午後2時開演

ところ 藤野芸術の家 クリエーションホール
     TEL 042-689-3030
      http://www.din.or.jp/~fart/

入場料 こども無料
     大人 500円から(カンパ代)

2008年2月13日 (水)

忌野清志郎完全復活祭(超長文)

 忌野清志郎が癌、それも咽のがん、というニュースが駆け回ってもう2年。
はじめてあのニュースを聞いたときは、慄然とし愕然とした。

今までどれだけ清志郎の歌に助けられてきたか。
清志郎のシャウトに揺さぶられてきたか。

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ここ数年、すっかりライブから遠ざかり、新譜の購入も滞ってはいたが、それでもずっと清志郎だった。

心の奥底に、いつか何かの形で仕事ができたら、なんて事だって考えていた。
少なくとも、同時代のユーミンやサザンが海辺のロックなのに対して、清志郎のロックは山なのである。
きれいにすまして唄うのではなく、山に登るようなロック。

だから。どこかで接点を持てるのではないか、などと考えていた。
それだけに癌、という病名はきつかった。

しかし、おう。すごいな。
漏れ伝える情報に寄れば、どんどん回復していると言うではないか。

そして、復帰一発目の武道館!

まだ余韻が続いている。

以下、だいたいMIXI日記のコピーです


2月10日。15時59分。藤野駅を定刻通りに発車した電車に揺られ、都内へ。

ちょっと疲労を感じ全身を電車の席にゆだねて、書評用に送られてきた本を読み始めた。

その頃から、ちょっと嫌な咳が続くようになった。
こみ上げてくるような咳。二月になった頃から、ちょっと風邪気味となった。
いつもなら加速度的に風邪に全身をむしばまれてゆく僕なのだが、昨年来比較的体調を整えてきたこともあり、何とか耐えてきたのだ。
しかし、ここまで耐えてきた堰が少しずつ崩れかけてゆく。一度咳き込みはじめると、肺の奥底にまで残ったわずかな空気まで無理矢理絞り出してしまうような、突き上げてこじあけてゆくような咳が続くようになった。

大丈夫かな?という心配をよそに、電車はどんどん都心へ。気がつけば国立も国分寺ももうすっかり過ぎてしまっていた。そして、僕が降りたのは中野。
 時計を確認。およそ17時。18時の開演にはまだ間に合う。ブロードウエイで咳を止める薬でも探してみよう。

 こうして、中野で降りて正面の商店街へ。賑やかなアーケードに入り込めば、あっという間に薬屋は見つかった。でも、結局咳止めを買うことは無かった。薬で簡単に収まるものではない、と思い直した。今まで薬を飲んだとたんに、咳が止んだ、というダイナミックな経験はほとんど無かった。それに薬を買うほどリッチじゃない。一応店内をぐるりと見回してそのまま元の通りへ。
 そうだ、リッチじゃない人間にふさわしいことをしておこう、というわけではないが近くの牛丼太郎で腹ごしらえ。並三百円也。わかめスープ付き。さあ、あとはキヨシロウだ。
 
 東西線で一気に九段下へ。そんなに混んでいた車内ではないが、九段下で降りる人が多い。エッ。みんなそうなのか。改札付近からもうすでに人の波。人の波。
 オイ、見事にオッサン、そして同世代かその上のお姉さん揃いじゃないか。ばしっと決めているのもいれば、そうでないヤツも。そして子供を連れているご夫婦?も。
 みんな、青春の一頁にキヨシロウが根を張っている奴らなんだろう。うねるような高揚感。すでに咳なんか忘れていた。ペットボトルでお茶でも買っておこうと思っていたのも、すっかり忘れていた。
 薄暗い靖国通りから北の丸公園。そして武道館。人の波。エネルギーの波。みなキヨシロウのために、足を運んでいる。
 鞄から取り出したチケットはアリーナB4ー43と席が記されている。仲井戸チャボ麗市ファンクラブの先行予約で入手したチケットだ。仲井戸さんのファンクラブからコンサートの案内が送られてきても、ここ数年コンサート会場に足を運ぶことはなかった。まあ、時間的にも金銭的にも、遊べない僕なのであった、というより他の遊びが多すぎて、ということ。
 しかし、今回のキヨシロウだけは何としても足を運びたかった。
 咽頭癌になったのが、すでに二年以上前。もう、あの歌声を生で聞くことはできないのではないか、その事実に愕然としたのだ。
 十代の終わりから二十代にかけて、いったいキヨシロウの歌にどれだけ励まされ、慰められ、勇気をもらってきたか。その歌詞の深遠に、転がるような言葉遊びに、唸らされ、シャウトする声に鼓舞され、這いつくばりながらも歌いうめく姿に、我が身を重ねたか。社会との摩擦にすり切れることのない姿に、どれだけ力づけられたか。
 言いたいことを歌ってくれたのがキヨシロウだった。
 とにかく人生の一つの指針としてキヨシロウはいつも歌ってくれていたのだ。

 僕がキヨシロウのファンクラブにも入ったのは、フリーになった頃だったような気がする。だから、全盛と呼ばれるより相当後の時代だが、その頃、生のキヨシロウを何度も聞いていた。そういえばタイマーズも生で見たし、チャボさんとのセッションも数回は見ていたはずだ。
 そういったことが走馬燈のように頭を駆けめぐってゆく。しかし、最後にキヨシロウを見たのはもう七年も前のことになっていた。レスペクト、だったか。同じ武道館の北側、つまりステージの裏側からであった。あの座席は、正直いただけなかった。コンサートに身が入らなかった。それがもし最後のキヨシロウになったら・・・それも嫌であった。
 もぎりの係員がチケット半券をうばったあと、キヨシロウの快気祝いが配られた。何と手拭いだ。完全復活祭 日本武道館、とデカデカと書かれた手拭い。上等じゃないか。日常より手拭い使いの僕にとって、またとない贈り物だ。ボロボロになるまで、使ってやろうじゃないか。

 数カ所で誘導され、やっと会場に入る。巨大な器の底に放り込まれる。そこはすでに何か怪しいエネルギーの巨大な吹きだまりと化していた。すでに着席している人を掻き分け僕の席に入る。周りを見回す。三百六十度、人人人人人人人。すごい。どこからどこまでも埋め尽くされている。何だか、ノアの箱船、なんて言葉を思い出した。みな一つの船に乗っている。そんな錯覚。
 正面には幅広いステージ。天井からはスクリーンが両脇に。(他にも数カ所あったようですが・・)
 鞄の底に忘れ残っていたのど飴を投入。少しは役に立つのだろうか。

 もしかしたら。
 もしかしたら、
 もしかしたら、キヨシロウを生で見るチャンスは今日が本当に最後になってしまうのではないだろうか。僕が心に抱いていた恐れはこれであった。
 完全復活祭、と銘打って、でも、本当に復活できていないのではないだろうか、などという失礼な考えがフツフツと浮かんでは消え、そしてまた浮かぶ。直ったぜ!なんて言いながら、ジャア、バイバイって言うんじゃないだろうか。そんな心配が巣付くっていたのですよ僕の心に。
 その心が消える前に、客電が落ちた。

 すでに、スタンディング。全員スタンディング。
 音楽が聞こえはじめる。RC時代の曲。何だかぼーっとしていると、頭上のスクリーンにキヨシロウが映し出されている。
 確かにキヨシロウなのである。しかし、どう見てもそれは爺さんなのである。いや、もっと渋い顔だ。ジジイだ。弱った、やつれた。髪の毛一つ無い顔。しかし、目だけは死んでいない。抗ガン剤の副作用。ごっそりと髪の抜けた、まるで死の淵に立っているような表情のキヨシロウ。嗚呼、と思わず叫びたくなる容姿。
 スライドが駒送りで進んでゆく。スキンヘッドがぐるんぐるん揺れている。
 少しずつ、少しずつ、髪の毛が生えてゆく。顔に精気が漲ってくる。そして髪は逆立ち、ベットから起き、衣装を整えステップを踏み。清志郎が近づいてくる。

 坩堝。興奮の坩堝。

 バンドの演奏がはじまった。まだ清志郎は出てこない。じらす。じらされる。早く早く、
おー、出てきたよ舞台左袖。こうしてはじまった一曲目はJUMP。
歌っている、跳んでいる。キヨシロウだよ。生きていた。本物だよ本物。すごいよ。声。なんて迫力のある、生きているロック。ああ。
 何曲目かの後で「椅子に座って小さな声でやるのかと思っていたけれど、バンドに戻ってこれて最高!だぜベイビー」といったMC。よく帰ってきた。凄い。
 比較的新しい曲が数曲続いてから。
 
 そうだそのイントロは。「いい事ばかりはありゃしない」だ。
 ステージ袖から影のようにやってくるのは、チャボ。そうだ。ギターを弾きながらの仲井戸さんだ。
 このRCの名曲。やっぱりチャボさんがいなくっちゃ。オマケに今回ドラムには「コーちゃん」こと新井田耕三が入っている。すっかり真っ白くなった髪。でも、コーちゃんだ。あとはリンコさんがいれば、などというのは贅沢か。でも、是非見てみたい聞いてみたい。などと思いながら、いい事が佳境に入ってゆく。一本のマイクでキヨシロウとチャボが声をあわせる。もう、何とも言えない

そして、途中から仲井戸さんがソロでボーカルをとる。

新宿駅のホームでウトウト
 吉祥寺あたりでゲロはいて
  すっかり酔いも冷めちまった

ここまで聞けば、次は何としても国立に来てほしい。絶対に国立に来てほしい。クニタチ。

    最終列車で、
      国立に着いた・・・

感涙、あふれ出したよ。
 感涙極まった。ついに涙が溢れてしまった。
 
 中学高校、僕は六年間、国立に通った。できのよい生徒ではなかった。落ちこぼれだった。まあ、異端だった。
 あの頃はRCが全盛期になっていた頃とオーバーラップする。しかし、その頃はRCにのめってはいなかった。面白いと思って聞いてはいたが、のめり込むほどではなかった。それでも、駅の近くのレコードプラントにもたまには通っていたし、焼きそばの丸十だったっけかな、そこでもしばしば食べていた。
 つまりその頃のRCの軌跡と必ず交差していた日々を送っていたはずなのだ。
 
 僕がRCにのめったのは、その数年後、大学に通い、一方的に恋をし、それが全くの空回りにしか過ぎなかった数年間。その数年間を振り返れば、どれだけRCに救われたか。
 今でも僕がファンクラブに入っている仲井戸麗市は、僕の高校の出身である。年代的にも十年以上の開きがあり、だからどうということもないが、それでもあの場所にいたはずだ、という確信は、このバンドをさらに身近に感じることができる一つの要因であったのだ。

 この「いい事ばかりは」はレコードでは「最終電車でこの街に着いた」と歌われたほかライブでは「最終列車で横浜に着いた」といったように、その会場の場所を入れて歌われることがい多い。でも、最終列車で武道館についた、ではなく、国立に帰ってきてほしかったのである。

だから、チャボさんの「クニタチ」を聞いたとたんに、もう涙がどうにも止まらなくなってしまった。帰ってきてくれたのだ、キヨシロウが。

本当に帰って来やがった。嬉しいよ。

いい事ばかりはありゃしない。そうだ。そんな人生だ。でも、でも、
ありがとうよ


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コンサートの楽曲順をセットリストというらしい。
MIXIのコミュで紹介されていた、今回のコンサートで演奏されたセットリストは以下の通り。


JUMP
涙のプリンセス
誇り高く生きよう
ダンスミュージック☆あいつ
NIGHT AND DAY
デイドリームビリーバー

いい事ばかりはありゃしない(ここから仲井戸さん登場)
君が僕を知ってる
チャンスは今夜
僕の好きな先生
私立探偵
多摩蘭坂
毎日がブランニューデイ

コーヒーサイフォン
GOD
スローバラード
激しい雨
ドカドカうるさいロックンロールバンド
キモチE
BABY何もかも

アンコール

よぉーこそ
ROCK ME BABY
雨上がりの夜空に
LIKE A DREAM


とにかく二十曲以上、全力疾走であった。
清志郎のコンサートでは、この疾走が本当に疾走である。

その印象をさらに深くするのがブラスセッション。
ニューブルーデイズホーンである。
梅津和時&片山広明、という最強のサックス陣。
そしてもうひとりペットの渡辺隆雄。
梅津さん、相変わらず、はねるまわる。クルクル動く。
野太いサックスがバンドに重量感を与える。
まったく変わらない。
片山さんも、そういえばかつて大病を患っていたはず。
さすがにはねたり肩車したりは無いけれども、渋いなあ。

もうこれは完全にRC、と思いたいが、やっぱりリンコさんがいないのが寂しいところだ、本音を言うとね。


で、途中からは印象的な部分をピックアップ。

仲井戸さんがリードボーカルをとった
「チャンスは今夜」
何だか一番二番三番、歌詞ががぐちゃぐちゃだぞー、と思いながらノリノリで聞く。これ、若いヤツの歌。若い男の唄。五十過ぎて。こんなに明るく歌うなうなよ。何だかニヤニヤしちゃうよ。嬉しいよ。

「僕の好きな先生」
はRCのデビュー曲。思いっきりアコースティックな楽器構成。清志郎のカズーがいい味を出している。これをステージで聞いたことはあったかなあ?
翌日のスポーツ新聞にはこの曲のモデルとなった先生も武道館に来ていたとのこと。御年七十歳を楽々越えているという。
僕はそういった先生に巡り会えなかったなあ、などとあらためて思いを巡らす。

そして「多摩蘭坂」
イントロで、もう涙腺がゆるみすぎた。
清志郎の、RCの楽曲には、月が似合う。
実際、多くの曲に月が歌われる。
蒼くて冷たくて、でも暖かい。そんな月の歌でも、多摩蘭坂の月は格段に丸いような気がしている。

国立駅から南に向かってまっすぐ伸びているのが、大学通り。
そして、その大学通りから等角になるように放射線状にのびる二本の道。一本が南西へ向かう富士見通り。そしてもう一本が東南へ伸びる旭通り。
そのまっすぐのびた旭通りが東側に向きを変えると河岸段丘の崖線を一気にぐっと登る坂が現れる。
これが多摩蘭坂。

この坂も何度も上り下りした坂。
何でもない平凡な坂だが、その石垣の一つ一つの石という石に、RCファンのメッセージが書かれていた。

黒井千次の短編に「多摩蘭坂」という小説がある。RCの曲が小説の昇華した作品であり、もちろん小説の内容はRCの曲からはどんどんと離れてゆくのだが、その基点である曲をしっかりと評価している。まあ、そんなことはどうでもいい。

静かな曲が武道館をやさしく包む。静かな曲の力が、優しさの力。か細い力。愛とか恋とか。そんなすべての感傷を、遠くのお月様が静かに静かに見守ってくれている。透徹した冬の空気のわずかな揺れを、歌っている。

そして、ふるえるようなボーカルに、僕もまだふるえている。

「コーヒーサイホン」

「清志郎二十一歳、仲井戸麗市二十二歳。はじめて一緒に作った曲です」チャボがこう言ってから歌いだした。

 ワークス、というチャボさんのCDで聞いていた曲、いや古井戸のポエジーか。こんな切ない歌を、そういう若さで作ったのか。
 しかも二人で。その二人だって、それから三十五年後の今日を想像することなどできなかっただろうなあ。そうか三十五年前といえば、まだ小学校の低学年、娘とほとんどかわらない年の頃か。
 これだけの歴史を積んできているんだよなあ・・・

「スローバラード」

名曲中の名曲。どれだけ助けられたことか、この曲に。
ただ、演奏の最後で何度もリフレイン?したのが鼻についた。
もっと素直に消え入ってもよかったのではないだろうか。
少々不満が・・・

「激しい雨」

これは、闘病生活直前に録音された「夢助」の楽曲。曲中にRCサクセションが聞こえる!というフレーズが繰り返される。

RCは解散、とは言っていないが、その活動が休止になってもう二十年近い。その後、ソロになった清志郎は23S、スクリーミングレビュー、リトルスクリーミングレビューなど、さまざまなバンド活動をしてきていた。そして現在はナイスミドル。でも、どうしても清志郎はRCなのですよ。それは現在の否定でもなければ、単なるノスタルジアでもないのですが。
だから、この日この曲で、「RCサクセションが聞こえる」が会場に響き渡ると、もうそこはRCの世界になってしまうのです。

もちろん僕もノリノリで拳を振り上げていたのだが、

バンマスの三宅伸治は、ちょっと悔しいだろうか、それとも嬉しいのだろうか。
RC時代よりずーっと清志郎と共に歩んできていた伸ちゃんだが、どうしてもチャボがいると二番目のポジションにならざるを得ない。

でも、大人だねえ、っと思う。同じ名字なので、気になる存在の三宅伸治。彼がいなかったら、清志郎はもっと早くボロボロになっていたのではないだろうか、などと思う。チャボと比較されるわけではないだろうが、なかなか清志郎の戦友(ちょっと嫌な言葉だがお許しを)になりきれない、ちょっとボウヤ、なのであるが。
 まあ、タイマーズが復活すればね、と思い返す。


ここからは激烈RC!
とにかく渦巻いているのですよ会場全体が。どかどかでがったがったなのです。

で、

アンコール前の一曲。
清志郎「世界には戦争やテロや・・・いろいろあるけれど、
聞いておきたいことがあるんだ」
いつもの、それは本当にいつもの清志郎のせりふだ。

そうだよ。清志郎がもうこんなにながく歌を歌っているのに、なんで世界は平和にならないのだろう。清志郎は平和のメッセンジャーなのだよ。昼間の広島市長の話、そして清志郎。なんてすばらしい流れなんだ。

「愛しあってるかい?」「イエイ」
「愛しあってるかい?」「イエイ」


こんな陳腐でストレートな、そして変わることなく清志郎らしい言葉を、この耳でしっかりと聞き、そしてしっかりと答えた。答える事ができた喜びで、また涙した。


そして、ラストの曲が終わる。久しぶりの着席。いったいどれだけの時間が過ぎたのだろうか。

開演前、武道館内で買ったお茶をぐいぐい飲む。途中、咳は出ていたが、清志郎のパワーに押され、(実際はアンプとスピーカーのパワーに押されなのでしょうが)その音は自分でも聞き取れなかった。それほどにガッタガッタと熱いコンサート。

そしてアンコール。

「よーこそ!」
またまたオープニングに振り出しだよ!
何という元気さ。

もう夜明けまで突っ走ってくれ!

じゃあバンドのメンバーを紹介しよう、ギター弾くしか脳のないヤツさ
古くからのオイラのダチさ

まったく、本当に古いんだよ。すげーよ。


アンコールでは舞台にいろいろなゲストが登場するのではないか、と思っていた。快気祝いセッションでもあるのではないか?と

ところが、そういったサプライズは無し。
もうグイグイグイグイ引っ張り暴れる。すごい。
この持続力。声量。誰が病気になっていたのだ、嘘だろう。冗談じゃない。溢れるパワーに、もうかなわんと思った。やっぱりキングオブライブだ。

チャボがあのイントロを掻き鳴らす。

「雨上がりの夜空に」

最近、清志郎がキングやゴッドなどという呼ばれ方をする事には抵抗感があった。キングやらゴッドやらそういった曲もあるのだが、腑に落ちなかった。

 でも、RC時代のライブアルバム、キングオブライブは、なるほどキングだ、と唸らせるものであった。そのキングオブライブが咆吼しているのだ。炸裂しているのだ。爆発だ。感無量だ。発射だ。

こんな夜におまえに乗れないなんて!
こんな夜に発車できないなんて!

ダブルミーイングの歌詞が、俺らをぶん殴って、なぎ倒して、また揺さぶって。襲っては襲ってさらに襲いかかる津波か突風か。ドカドカでガッタガッタ!

ウオー。清志郎だよ清志郎。生きてたよ。生きてるよ。
ガンガンだよ。ガンガン。

最後は礼儀正しく、深々と礼。そして去ってゆくバンド、ひとり残る清志郎。一本のギターで絶唱。あとでライクアドリームという曲だと知る。

これでおしまい。そしてこのお終いは、きっとすべてのはじまりではないだろうか。

屋根裏・久保講堂といった伝説のライブ。その伝説が新たに書き換えられたライブだった。その場に居合わせた至福に、完全に乗っ取られた。

コンサートが終わってもう3日。この余韻は何だ。

早く仕事をしないと・・・
でも、その前にやっぱり聞いておこう

「愛しあってるかい?」

2008年1月14日 (月)

藤野各種イベントだよ

またもやMIXI日記の転載。
MIXI見られる人はそちらを探してみてください。

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冬だというのに、相変わらず藤野ではイベントがぞろぞろ。

で、僕が関わっている、あるいは関わりの深い催しを三題ご紹介。
ぜひご参加を!!

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その1
「トリノイエプロジェクト」
1月27日 9時30分 篠原の里集合

僕の参加する「npo篠原の里 企画匠部」主催のプロジェクト。
昨年からはじまったトリノイエ。
今年の第一回は、昨年作ったアートな巣箱を山にかけます。
もちろん今回も佐藤文男さんが指導。なんて贅沢な!
佐藤さんは日本で唯一の鳥類の研究期間、」山階鳥類研究所の研究員。アホウドリをはじめとする渡り鳥の研究家で、第一級のフィールドワーカーである。http://www.yamashina.or.jp/gaiyo/staff/sato_fumio.html

なお、新たに巣箱を持ってきてくれる人も大歓迎。
巣箱掛けが終わったら、気持ちよい雑木林で、お弁当を食べましょう。
参加申し込みは篠原の里、または僕へ。
http://blog.goo.ne.jp/shinobara/
http://www.ops.dti.ne.jp/~shinoba/

とにかくオススメです。


その2
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落語会
1月19日 午後1時30分
最近はやりの「ちりとてちん」
あんなうまいモノはないらしいですぞ。
主催・会場はすずかけの家って、つまりこれまでオーストリア芸術の家だった民家。現在宅老所となるべく改装中!


http://www1.ttcn.ne.jp/~makime/ge/suzukake/080119/suzu080119.html

その3
2月10日 旧藤野町役場
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講演会。

秋葉忠利広島市長を呼び、平和について語ってもらう。
これは、僕の母が力を入れてようやっと実現したもの。(数年がかりだったらしいが・・)
秋葉忠利さんについては以下のサイトで概略がわかるが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%BF%A0%E5%88%A9
実は、その母親の出身地が藤野町吉野なのである。
ということで里帰り凱旋講演ということになる。

会場が狭いので、窮屈なことになるかもしれませんが、ぜひおいでください。また、駐車場がまったく確保出来ないので、近場の人は乗り合わせ、遠くからの人は電車でお願いします。
僕は最後まで聞けないのですが・・・駐車場係です。

では、たくさんのご来場をお待ちしマース。

2007年12月14日 (金)

久々でいきなり最終回

ブログはすっかりご無沙汰であった。Photo


たまに書いてもmixiにあげてしまうからなあ・・・というわけで、今回もmixiと同じ内容です。

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8日は忘年会であった。
藤野駅から各駅停車を乗り継ぎ、二両編成の小海線が甲斐大泉で下車する頃はすでにとっぷり暮れていた。

ロッジ山旅、という山岳書がどっさり並ぶその宿で開かれたのは山岳関係の出版社、白山書房の忘年会。集まっているのは社主と編集担当のs氏、そして読者など総勢16名。
はじめて会う人も多かったが、
まぶたが重くなるまで、
山を肴に、山の本を肴に、楽しい時間を過ごすことができた。

さて、
宿に着くなり手渡されたのが、白山書房の看板雑誌、
季刊「山の本 62号」。
印刷所で刷り上がったばかりの最新号である。
頁をめくって早速自分の写真に目を通す。
これが5年間の連載「一写一遇」の最終回である。

山の本は落ち着いた味わいの、文章主体の山雑誌である。
ほとんどカラー頁が無かった雑誌ではじまった、カラーでの連載。

写真のセレクトは、社主と僕が行うのだが、僕が良いと思う写真と社主が良いと思う写真が微妙にずれているのも面白かった。

山の本は、読み返すほどに味の濃くなる雑誌である。
書棚にずらりと揃え、ちょっとした時間に読み返す。
こうした楽しみのある雑誌なのだ。
Photo_2

注文は
http://hakusan.outdoor.cc/
まで。
バックナンバーまで揃えて注文いただければ幸いである。
(小さな出版社だから応援してくださいな)

なお、蛇足ながら、白山書房は藤野から最も近い出版社?
なにせ高尾山の足下にあるのである。
(まあ、社主の自宅なわけですが)

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なお、来年は月刊日本カメラで連載がはじまります。乞うご期待!

2007年4月 2日 (月)

日々雑感おもいつくまま

年度がかわった。
少しだけ、新しい気持ちになっている。

それにしても、この半月ぐらいは、本当にしんどかった。
ぼやき節になるかもしれないが、とにかく、つらつらと書いてみる。

炭の事典。
降って湧いた仕事であった。版元は、「炭焼紀行」を出している創森社。
紀州備長炭の炭焼きさん、玉井又次氏の聞き書きに写真を提供したことで、社長の相場さんと会話を交わしているうちに、この本が製作されていることを知った。
炭に関する本格的事典。もし、何か手伝えれば、と言う気持ちがムクムクと湧いた。
送られてきたのは、もうほとんど項目立てが終わり、記事が書かれたゲラであった。
そのゲラを眺めて、正直なところ、ちょっと愕然とした。
そこまで仕事を進めてきた執筆陣は、木質炭化学会の会員であるという。
まあ、まとめ役の先生がそこのお偉いさんだ。
そのお偉いさんからは、かつて妙なインネンをつけられたことがあるので、それだけであまりいい気はしなかったのだが、とにかく記載内容がお粗末であった。
炭の事典なのに、書いている人が炭焼きの現場をほとんど見ていないだろう、と言うことが容易に察せられた。
妙に化学に傾いた記載内容からは、山仕事としての炭焼きが完全に欠落していた。
これが炭焼き事典になったら、山で仕事を重ねている炭焼きさん達が怒るのではないか、とさえ思った。

ゲラに赤を山ほど入れて、相場さんと杉浦先生にあった。杉浦先生は、炭焼きの現場をしっかりと知っている老学者で、僕はもう20年のおつきあいをさせていただいている。
まあ、事典をつくると言う作業の、細目を担当するには大御所過ぎるのだが、さすがに先生の意見は的を得ていた。そして、僕が新たな項目を含め、ずいぶん加筆訂正をすることとなったのだ。

中には、僕の知らない事象もあり、もう一度机上にて炭焼きを整理するために、一万円もする古本を手に入れたりした。こういう、採算を度外視するやり方は、はっきり言っておよそ仕事としては落第であろう。嫁さんからもクレームが付く。でも、例えほんの数行を書くためであっても、どうしても必要な資料だったのだ。

こうして、それなりの日時を費やして炭の事典の補稿を行った。

その後、僕は送られてきたゲラを見てまた激怒した。
僕は、きちんとした著者として紹介されず、編集部以来のライターとして、括弧の中に他の2名とひとからげにされ
ているのだ。

おい。俺はライターじゃねえ。フォトグラファーなんだよ。しかも、炭に関しては、ちょっとやそっとの野郎よりも、絶対に知っているはずだぜ!

抗議のメールを夜中に書き、翌日先方から電話があった。
まあ、満足行くものではなかったが、納得はした。やれやれ。
そんなことにまるまる一週間は費やしてしまった。


その間、やらねばならぬ仕事が、ずっと先送りされた。
その一つは、3月末が締め切りの、ネット関係のコンピュータ仕事であった。
昨年、山で撮影した写真をリサイズし、コメントを書いて地図に載せる。
初めての仕事。
これも、いったい幾らのアガリになるのかサッパリわからない。
少なくとも、取材費がなかったぶん、もうずいぶん持ち出している。
契約をしっかりしていない、と嫁さんに怒られる。
そりゃあわかるけれども、先輩の写真家に廻していただいた仕事である。
契約契約、と割り切ることはできない。

その仕事が、連日連夜、本当に今晩まで続いた。


それだけならまだ良い。

一番参ったのがインフルエンザだ。

先週の日曜日は、娘の卒園式であった。
のびるっ子ともついにお別れ。

この園の卒園式は、保育園での生活の集大成であり、さまざまな技を披露してくれるのだ。
本当に楽しみにしていた。

その、卒園式の前々日から高熱で倒れた。インフルエンザだ。嫁さんも倒れた。
夫婦で卒園式を欠席した。悔しい。
式の直後、娘も高熱となった。
みんな倒れた。
あまりのひどさに、タミフルも呑んだ。何となくヘンな夢を見た。
その後、声が嗄れ、未だに戻ってこない。
微熱と咳が続いている。
それでも、毎晩、午前様で仕事をした。コンピュータ仕事だ。
ちょと辛いと思った。

明日、もう一度病院に行こう。

山は春だ。ギフチョウのパトロールもはじまっている。
18日・19日と山に入った。
そして今日4月1日は、恒例の官民パトロール。
咳を圧して参加した。
山は気持ちが良かった。
娘は、同級生の家に無理矢理預かってもらった。有り難い。
娘にとっても、その方が有り難かったに違いない。
何でも、田んぼの方でカエルを捕まえてきたのであった。


さて、山でのパトロール中のこと。通報が入り、常さんと政さんが風のように山を下りた。そして、違法採取を行っていた50代ぐらいの男を捕まえた。
採取をした瞬間ではなかったので、逮捕には至らなかったが、警察がかなりのお灸を据えた。
逮捕ならば30万以下の罰金なのだ。
それにしても、言い訳を繰したという、蝶マニアの男のつまらなさ。なんだか情けなくなった。
何で、採取禁止の蝶を、コソコソと採るのだ。
地域の宝を愛する、僕らにとって、こういう事態は本当に悲しいのだ。

午後からは、金比羅に登った。
どうせ体調は悪い。読喰わば皿まで、的なノリで山へ登った。
ふもとから約一時間。娘も、娘と同級のマンちゃんも、そしてその母親も頑張って登った。

祠の前で、簡単なお祓いと、なおらい。
山の小さな祠の祭りは、実に静かで、身が清められる想いだ。
この半月ほどの、ちょっときつすぎる日々を、慰めてくれるかのようであった。

今月。僕は古峰神社に代参人としてでかける。
おふだをもらうのだ。

おそらく一生に一度の、行事となるだろう。

それを心待ちにしているのだ。


2007年3月 5日 (月)

手橇の技



飛騨も暖冬であった。
里も山もすっかり春の装いとなっている、
森の中は融け残っているけれど、
もはや雪山の風情では、ない。

朝八時。待ち合わせ時間通りに、先方宅へ。
「昨日踏んでおいたから」
と、撮影をお願いしたOさんが迎えてくれる。
きちんと誠実に年を重ねた、古老と呼ぶにふさわしい
大正最後の年に生まれた、正しき山の老人である。
そして、ちょうど今日が誕生日であった。これは偶然。

さて、その古老に無理矢理お願いしたとおり、
仕事をしていただく。
もう何十年も、体に染みこんでいる技を披露していただく。

正確に言えば、仕事のフリ。ヤラセ?
何とでもいってくれ。
他の誰にもできないことをお願いしているのだ。

納屋の奥から、小さく束ねられた数本の木。
それを、ぐいぐいと締めながら組んでゆく。

家の裏手に続く森には、それでも一応しっかりと雪が残っている。
しかし、予想外の出来事。
「凍みていない」

長い人生経験でも初めての暖かさ。
昨日踏んだ雪面が、ザクザクと粗目雪のまま凍っていないのだ。
だが、チャンスはもう無い。
古老は肩に先ほど組んだ橇を背負い、森へ踏み込んでいった。

倒木を玉切りにした材を、ツルを使って橇へ載せる。
重い木を載せるときは、僕も手伝う。
ただカメラのシャッターを切ればよい、というものではない。
使いはしなかったが、僕の車にもチェンソーは準備してあった。

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Oさんを知ったのは、まったく偶然。
マイミクの流水麺氏がかつて映像関係の仕事をしていたときに、
Oさんの仕事をきっちりとビデオに押さえていたのだ。
そのビデオを見て、ぜひとも撮影したい!との思いに駈られた。
昨秋、別な仕事で高山に出かけた折、
夫さんのOさんの名前をたよりに、車を走らせた。そして、出会うことができた。
そして、3月の撮影を約束していたのだ。
通常、3月になると雪が沈み、仕事ができるようになる。
だから3月だったのだ。

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木を載せた手橇。
柔らかな沈み込む雪に再三再四、橇は難渋した。
固まらぬ雪を、それでも踏み固めた。
ほんのわずかな距離の移動に、
橇も悲鳴を上げているようだった。
Oさんが手こずっているのがわかる。
申し訳ないような気分だ。
沈んだ橇を、何回か動かした。
しかし、ある場所からほんの10メートルほどだったろうか。
橇は見事に斜面を下ったのだった。
音もなく。バランスをとりながら。

その動きのスムーズさに、僕はあっけにとられてしまった。
あっけにとられながら、
シャッターをようやっと切ったのだ。

ほんの数秒。もう橇は動きを止めてしまっていた。
「これでいいな」
振り返ったOさんの顔が、柔らかくほころんだように、
見えたのは、遠目のひいき目か。

飛騨の手橇による木材搬出は、木下好枝が写真集に数枚残している。見事な記録写真だ。
その写真には、正直及ばない部分がある。彼女は生活の一環を記録したのだから。

でも、それでも。今撮影しなければとることのできない世界。
僕のテーマである、山仕事、にとって、重要な写真を写すことができた。

Oさん。ありがとうございました。
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以上、例によって、ミクシーと同じ内容です。
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